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2017.12.22 大田垣 成俊
授業の褒美と、言葉の力。

どうも、最近、内容的に美容師かどうか疑わしいけど、スタイリストの大田垣です。

 

ブログに関して、実は、今月は「日数ぶん書く」という裏目標があります。

 

 

「なので」というのは理由にはなりませんが、美容ネタとは全く関係ないネタとかも結構書いています。(もともとです)

 

 

しかし、その中でも、「ガッキーのブログって結構面白いよね」とか「この話、笑ったわー」とか、

 

 

読み手なりに楽しんでいただけているっぽい声が結構届くので、

 

 

開き直って僕もラフに書いたりしています。(もともとです)

 

 

なんなら全部、漫画とか音楽のレビュー書いて自己満足にどっぷり浸ってもいいんだけど、流石にそれは飽きられるのでやめます。

 

 

 

現在、英語を教えております。

 

 

といっても、そんな偉そうにできるほど、英語が出来るかといえば、出来ないです。

 

 

「中学英語程度なら…」と思い、依頼を受けたものの、ド忘れしている内容も多く、三人称単数現在形の「動詞+s」すらも「そういえばあったな」って感じで、

 

 

イディオム(熟語的なやつ)も忘れているものだらけです。

 

 

 

 

 

ただ、仕組み、要領さえ抑えておけば、不完全ながらも、案外それなりの形にはなるもんだな……という事を学べました。

 

 

 

 

それにしても、存外、教育というものは面白い。

 

 

学ぶ意欲のある人を相手にするのは、なお面白い。

 

 

 

 

食事を与えることと似ていて、料理をどこまで噛み砕けば飲み込むことが出来るのか。

 

 

素材に手を加えなくていいのか、はたまた離乳食ほどに溶かさないといけないのか。

 

 

どの段階なら嚥下できるのかを様子を見ながら、図る。

 

 

柔らかくしたものばかり与えたら、飲み込むことは出来ても、そのもの本来の、一つ一つの味わいや形を分けられない。

 

 

自分で理解し、消化しようとする本能は弱まっていく。

 

 

 

慣らして慣らして、“知識の素材”の噛み砕き方を教えて初めて、その人の血肉と成り、ちゃんと他の誰かに伝えることができるようになる。

 

 

 

 

 

一応、最終的には「そのスタッフが日常英語がそれなりに正しく喋れること」が目標、

 

 

 

ではなく、

 

 

 

「日常英語がそれなりに喋れるようになり、そのスタッフがそれを周囲に教えられるようになる」ことです。

 

 

 

ハードルたっけぇ(笑)

 

 

 

 

でも、やっぱりこういうことを数回して、

 

 

 

本質的に、僕の天職は教育なんだろうな…というのは薄々感じます(笑)

 

 

 

あ、美容師は続けるのでご安心を。。。

 

 

 

スタッフから言われたことで、

 

 

 

 

「現地で一応、英会話の先生から、1時間2千円で教えてもらっているけど、

 

 

 

大田垣さんのほうが遥かに解り易いです(笑)

 

 

英語に対する捉え方もシンプルになったし。

 

 

 

教えてもらったことを意識してFacebookに英語で投稿したら、明らかに反応があって、今までと違う気がします。

 

 

 

これ、お金取らないんですか???」

 

 

 

 

取っていいなら取りたい。

 

 

けど、まぁ、いけない気がするので、「アイス与えてくれりゃ僕は喜びますよ(笑)」

 

 

 

 

 

 

って言ったら、こんなに恵んでいただきました。(1つのつもりだったけど、貰えるものは貰っとくw)

 

 

 

 

 

 

言葉に対する思い入れ。

 

 

「文章力がある」とか「本が書ける」とか、色々なことを言っていただきます。

 

 

「知人の中で一番文章が上手い」とすら、遂に言われました。とてもじゃない。過大評価です(笑)

 

 

 

でも、確かに、意識的に、意図して書いている部分はあります。

 

 

 

行間、リズム感、読み取りやすさや、考えてほしいからこその間接的な表現、ちょいちょい意図しています。

 

 

 

そんな僕が、言葉を扱うことに関して、どうしても1つ、気になることがあって、

 

 

 

「機械による翻訳の過剰な進化」

 

 

最近、googleとか、アプリでカメラを英語にかざせば、画面内で翻訳して出てくる。とか、

 

日本語喋ったら機械が勝手に英語に変換して喋ってくれる。とか、

 

 

 

凄いと思うし、便利は便利、スムーズにもなるけど、「それがあるから言葉を学ぶ必要がなくなる」という考えを増長させる結果なら考え所です。

 

 

 

別に怪しい信仰をしているわけではないですが、個人的に「言霊」というものを信じています。

 

 

 

「言葉には魂が宿る」ってやつですね。

 

 

https://panda-ondo.org/心/言霊の力/

 

 

(↑ これとか面白いですよー)

 

 

 

 

相手の言語を知ろうとすることは、言語以外にも、歴史、風習、風土、人の心を知ろうとすることだと思います。

 

 

同じ日本語だろうが、相手の生きたナマの言葉を知ろうとすることは、その人の成りや真意を知ろうとする意思表示だと思います。

 

 

 

機械的に訳された言葉に言霊が宿るとは思えないんですよね。

 

 

人の肉体を救うのは、いつだって「行動」です。

 

人の魂を揺さぶり、ちゃんと繋ぎ留めるのは、いつだって「ナマの言葉」で、行動だけでは誤解も起これば、説明不足の事も多いと感じます。

 

 

 

 

 

言葉に力がないのなら、語学や文学はここまで重んじられていない。

 

 

知を得る為にも、互いの心を知り、分かり合うためにも、言葉を重んじる語学、文学は栄えてきたはず。

 

 

 

それを機械化しすぎることは、少し勿体無いと思う。

 

 

 

外国人が日本で「アリガトゴザマス」と、間違っていてもいいから、学んだばかりの拙い感じで言うのか、

 

「Thank you」とサラッと機械に伝え、「アリガトウ」と機械音声が伝えてくれるのか、

 

 

 

 

日本人である自分たちの心の揺れは、大きく異なるはず。

 

 

 

 

「美容師が無理なら、日本語教師になりたかった」という第2の夢は、

 

 

この言葉の力を中学の時から感じていたからだと思う。(テキトーすぎて免許は社会の教科になったけど)

 

 

 

 

だからこそ、言語コミュニケーションによる意思疎通を考え、それを学び、持ち帰り、伝えようとする、スタッフの意志は素晴らしいと思う。

 

 

そして、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何故、現在美容師の僕が、こんな言語学者のような事を書いているのかは、甚だ謎である。

 

 

書きたい事がなさ過ぎるのだろうか。。。。。。